世田谷の川探検隊

経堂の“悪水溝” (きょうどうの あくすいこう)

ふと、自宅の近所で見つけた川跡。
「これ、川だよなあ。でもただの下水だろなあ」と思っていたんですが、なにやら歴史のある場所だったようです。

「菅刈橋跡」──悪水溝ニカカル橋ニシテ、漸ク石梁二枚ヲ渡セリ


経堂4-6の一角に、小さな路地を見つけました。
独特のくねり方とたくさんのマンホール、そして車止め。
地下に水路が流れているのはあきらかです。


そのそばに掲げられている標示板には「菅刈橋跡」とあります。

江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』には(略)菅刈橋について「字横根ヨリ北ノ方ニアリ、悪水溝ニカカル橋ニシテ、漸ク石梁二枚ヲ渡セリ。」と述べている。  →全文

元禄4(1691)年、徳川幕府によって品川用水が拡張された際、この付近にいくつかの悪水吐を作ったという記録があります。
大雨で用水が増えすぎたり、水が濁った際に途中で捨てるための水門と水路です。
これから辿る川跡はそのどれかだったかもしれない‥‥ということになりますが、結論はこのページの最後で。

集合住宅地内


住宅の間を縫うように進む暗渠。
大きな道との交差には必ず車止め。橋の欄干を髣髴させます。


集合住宅の中を抜けると、城山通りに出ました。

城山通り


通りを横断して歩道脇を暗渠が続きます。左は上流方向、右は下流方向を見たところ。
黄色い立て札は「この先左折後 幅員減少」。川跡があるところだけ道幅が広いってこと。
よく見るとこれは車輌用ではなくて、歩道の利用者に向けて立っている。しかもやたらデカい。ナゼだ?
ちなみに、ここは昭和50年代後半までは開渠だったそうです。

北へ


城山通りから分かれて、緩やかな斜面を下って水路は北に向かいます。

小田急線


高架化工事の進む小田急線の下をくぐります。
この工事が始まるまでは線路脇にくぼんだ空堀が残っていました。

高架化進む小田急線


この工事は数年前からゆっくり進行中です。
雨が降るとときどきガマガエルが散歩しているのに出会ったものですが、どこへ立ち退きされたやら。
この写真は2000年大晦日に撮影しました。
そして、2001年10月28日に下り電車が高架上に移動しました。

小田急線の北側


線路をくぐった反対側。青いガードレールが一ヶ所だけ低くなっているのがわかりますか?
そこが水路のあった場所。
そのまま歩道の地下をしばらく東に進んでいますが、そのあとは確認できなくなっています。


このあたりの路地はいかにもあやしいのですが、確証がありません。
線路沿いに水路が書かれている地図もありますが、これは小田急の開通後に付け替えられたものでしょう。
いずれにしてもこのあたりを北東方向に進んだあと烏山川に合流していたはずです。


番外・上流端を探せ

最初の路地の周りを歩いてみました。

すでにこのあたりには水路の痕跡はありません。


すぐ近くには稲荷森神社があります。
「この境内で湧いた水が川になって流れていた」という話を聞きましたが、その痕跡を見つけることはできませんでした。

付近には、川の痕跡らしきものはたくさん見つかります。


ただしどれも新しい下水道のようでもあります。
というわけで、この水路の上流部は今のところ特定できていません。

この南西に品川用水跡が残っており、その水路は最短距離で200メートルほどのところにありました。


用水跡の側から探してみて、もっともそれっぽいのがこの路地。
ただし徳川時代の水路がそのまま残っているというのは、あまり期待しないほうがいいかもしれません。

品川用水に設けられた悪水吐。実は正式な記録には別の村の名が書かれています。
もう少し踏み込んだ調査が必要です。

ともあれ、川跡が現にここに存在していることだけは確かなのですが。

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