|
なかがき 終わることのないあとがき
“江戸東京学”とやらがブームになった時、世田谷という土地はあまりその恩恵にあずかれなかった。
『東京を歩く』みたいな本をあたっても、世田谷のあつかいはあまり大きくない。世田谷というのは不運なところである。
関東大震災(大正11年)以前の世田谷はあまり人の住まない土地だったそうだ。ほとんどが田畑だったわけで、たしかに歴史的な建築物などもあまり多くない。
そんな世田谷にも、震災後都心から移り住む人が溢れはじめた。この時期にはお寺までもが都心から誘致されてやって来た。
昭和に入れば鉄道が通り、大きな道路が造られた。街のようすも変わった。田園風景の上に、いわば新しいペンキがどんどん塗り重ねられていった。
でこぼこの板にペンキを塗ると、やがて乾いたときに元のでこぼこが現れてくる。歴史の遺産の少ない世田谷にも、そうしたでこぼこが残っている。
かつては田畑を潤し、近世にあっては工業を支え、そうして人々の生活を支えてきた川がそのひとつである。
いまだ前例のない(と思っていた)世田谷区内の緑道・川跡を集めたWEBサイトを作ろうと思い立ったのは、1999年2月のことでした。
|
北沢川緑道(1999年春) |
この年、世田谷に移り住んでちょうど20年
になりましたが、なぜか区内のどこに引っ越しても、近所に“木のトンネル”がありました。
暗渠の上を公園にした「緑道」です。
この緑道の存在が、20年目にしてふと気になりはじめ、「どれ ちゃんと調べてやろう」と思い立ったわけです。生れ育った家の近くに、江戸時代の杉並木の残る街道があったりしたもので、それに通じるなにかを感じていたのかもしれません。
──もともとは歴史とか、地理とかにはあんまり興味のない人間だったんですけどね。
|
烏山川緑道(1999年冬) |
世田谷区内には「緑道」と名のついた公園が十数か所もあります。
一部は開渠ですが、大半は暗渠の上部を遊歩道にしたもので、もともとは自然の川だったり、人工の水路だったりしたものです。そして、このほかにも姿を消してしまった川や水路がたくさんありました。これらは道路や鉄道ができるよりもはるか昔からあって、田畑をはじめ人びとの生活や、自然そのものを支えてきた、いわば街の先住民でした。
緑道の中を歩きながら、自分の足元にはさらさらと水が流れていて、周りの土手には草、そして木があって、その向こうは遠くまで畑が広がっていて‥‥とおおざっぱに想像すると、世田谷の原風景は簡単に立ち上がってきます。ちょっと時代が下ると各社の鉄道、もうすこし下ると大きな道路、そして首都高速‥‥そして爆発的にモノが増えて現在に至ります。
|
名前のわからない川跡(1999年 羽根木) |
そうした中にあってあまり形が変わらずに残っているのが川の流れ。人がおぼれたり、台風によって氾濫したりと激しく人とぶつかりあった時期もあったようですが、農耕地帯だったこの一帯にとって水路は欠かせない自然の一部だったでしょう。
今はその役割を終え、下水路として、公園として、穏やかに余生を送っているわけですが、あとから作られた道路や線路など、現役の都市機能とはあまり関係なく、にょろりにょろりと街を貫いていく、この不思議な「みち」の存在に心を惹かれたわけです。
|
名前のわからない川跡(1999年 赤堤) |
各地を巡るうちに、もっともっとたくさんの小さな水路が暗渠となって、下水として使用されていることを知りました。田畑を灌漑するために引かれた水路。大きな用水から余った水を捨てるために造られた水路。谷から湧き出た水が自然とかたちづくっていた小さな川。などなど。
こうした、さまざまな背景を持つ「川」が、近代になって埋められたり、ふたをされたりして現代に生き残っていたのです。
|
玉川上水緑道 1999年 |
こうした水路は役所で資料を探せば一目瞭然なのでしょうか。しかし敢えてそうしたことをほとんどせずに自分の足で歩いて水路を探しています。
ただ、意識してそう頑固にしているわけではありません。あなたがもしも身近に見つけた“川跡”や“水路”がありましたら、どうぞ気軽にお知らせください。
使用した写真は、キヤノンのデジタルカメラ(PowerShot G3, G2, G1, A50, A5zoom)、2台のライカともろもろのレンズ、ニコンのデジタルカメラ(COOLPIX5000)、コンタックスG1。そしてごくわずかにオリンパスのAPSカメラを使用しました。
初稿:恐怖の大王なんか降ってこなかった1999の年9の月
それももうじき終わりだよという雨の日に
改訂:2004年1月13日 |
|