旧品川用水の由来について

この前にある千歳通りは、旧品川用水の水路跡です。
品川用水は熊本藩主細川越中守綱利の弟若狭の守利重が将軍から賜った品川領戸越(とごし)・蛇窪(へびくぼ)両村にまたがる抱屋敷(かかえやしき・別荘)の池に使うための用水として、寛文3〜4(1663〜64)年玉川上水から分水した戸越上水が前身です。
戸越用水は寛文6年に一旦廃止されましたが、翌7年に品川領の村人が幕府に使用を出願し許可されて、品川用水がはじまりました。

旧戸越上水は細流だったので、寛文9年幕府の費用で江戸の商人達に請け負わせて拡張工事をしました。
そのとき、用水の通る彦根藩世田谷領では、潰地(つぶしち)の地代年貢をとるかわりに「用水何ヶ所にても御望次第永代差上可申候事(おのぞみしだいえいたいさしあげもうすべきそうろうこと)」の書き付けをとって、世田谷村1ヶ所・用賀村2ヶ所・弦巻村1ヶ所の分水口を設けました。
しかし、元禄2(1689)年品川領9ヵ村の村は「世田谷領御領・私領之村村に水引取、品川領に水届不申故」と、上流の世田谷領内の調査を勘定奉行に嘆願しました。
分水停止を前提にした勘定奉行の現地調査に対し、世田谷領の3ヵ村は先の書き付けを楯に猛然と反対しましたが、幕府権力の前には書き付けは一片の空文となり、分水口は閉鎖されました。

品川用水は、その後元禄4年に幕府の工事として、第2次拡張工事が行なわれ、昭和初年まで豊富な水が流れていましたが、昭和7年用水組合が解散され、昭和25〜27(1950〜52)年、おもにゴミなどで埋め立てられて、289年の歴史を閉じました。

この窓を閉じる
inserted by FC2 system